あらすじ・解説
1954年の日本。太平洋沖で船舶遭難事故が発生。何度も行われた水爆実験によって太古の生物が目覚めて暴れたことが原因だった。その凶暴な怪獣は、ゴジラと名付けられる。やがてゴジラは東京を襲い始め、人間側が反撃するも成すすべがない。一方、古生物学者の山根(志村喬)の娘・恵美子(河内桃子)とフィアンセのような関係である芹沢博士(平田昭彦)は、ある研究に没頭しており……。
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作品レビュー(217件)
- HIRO
5.0点
「ゴジラって何から観れば良いの?」 そう訊かれた時(人生で今までに3〜4回しか無いですが笑)、 相手があまり普段映画を観ない人なら、 「シン・ゴジラ」を。 そしてクラシックな映画にも抵抗が無い方には、迷わず今作を奨めます。 まだ、「特撮・怪獣映画」がジャンルとして確立していなかった時代、 怪獣の着ぐるみを纏った演者がミニチュアで作られた市街地を破壊して回る特撮パート、 これまでの様に演者が人同士で演技するドラマパートを撮影し、 合成技術等を用いてその2つを一本の物語として繋げる。 現在でも尚貫かれるその手法を最初に編み出したのは、この作品でした。 しかし、「ゴジラ」の価値は、 その分野の草分け・エポックメイキングであるという点だけではありません。 核兵器という、今現実の世界でも私達を脅かす存在が更に大きな災厄を生み、 人間の文明に牙を向く。 それに翻弄されながらも、各々の信念と現実の狭間で葛藤する人々が織り成すドラマを不足する事も冗長になる訳でもなくしっかり描ききる。 ゴジラの真価は、単一の作品として観た時も十二分にクオリティが高い事にあるのです。 勿論、70年近く前の映画である為、 登場人物の台詞回し等には当時の、 そして今からすればクラシックな映画独特の空気感、癖とも言える描写は存在し、万人誰しもにウケる内容ではありません。 しかし、時代を越えて語り継がれる普遍的な要素は、これから先も評価され続ける事に疑いの余地は無いでしょう。 怪獣が街を破壊して回るエンターテイメント要素と、反戦・反核を叫ぶ社会的な要素、その両者を破綻無く融合させた傑作は、実現が容易ではないからこそ 数少ない成功例がとても大きな存在なのだと思います。
- とみいじょん
5.0点
シンプルな人間ドラマ。明確で力強く突き刺さるメッセージ。 1954年3月に起きたビキニ環礁での核実験。第五福竜丸のの悲劇+汚染マグロ等の風評被害。 わずか9年前の東京他への大空襲。広島・長崎の原爆。 戦争の記憶が残るうえに、またも核の恐怖が呼び起こされる。 1952年にGHQは廃止されたものの、 10年後には東京オリンピックが開催されるものの、 東京タワーもまだなく(1958年竣工)、 新幹線だってまだまだ(1964年)で、 まだ復興途上。 当時の世相。 これらがベースになっている物語。 ドキュメンタリーのようにとった部分と、怪奇物の演出を取り入れた部分の融合。 (徹底的にリアルにこだわった部分と、 恐怖を煽る音楽・恐怖におののく様・被害の概況はリアルに見せるのにその恐怖の実体はなかなか見せない等の演出) 宝田氏はこの重苦しい映画の一種の清涼剤。 河内さんの可憐な佇まいも重苦しさの中の華。それなのに、わざと?随所で見せる、楳図氏の漫画のような大仰な演技。 芹沢博士の出で立ちも怪奇物を踏襲。そこに平田氏が悩める若き科学者の繊細さと影を添え、物語がどう動くか、ドキドキさせてくれる。(芹沢博士の研究室も、怪奇物ぽさ全開) 新吉の朴訥さ。 田辺博士の、らしさ。なのに、意味ありげに、意味不明な佇まい。 この映画がフィクションであることを思い出させてくれる。 避難者・被災者の様子がリアル。 次々に破壊される街が徹底的にリアル(Wikiによると、銀座の街を実際にロケハンしてsizeを測ってミニチュアを作ったとか)。 崖から、ビルから覗くゴジラの怖さ。炎をバックに、ビルの向こうに見えるゴジラの美しさ・神々しさ…。 スーツアクター・中島氏は、動物園に通って動物の動きを研究し、ライオンの持つ威圧感に、クマの直立する動き、ゾウの脚運びを参考にしたそうだ(Wikiより)。 志村氏の、根底に怒り・悲しみを秘めた演技。 国会での情報開示の論争。ー戦争についての正確な情報を全く知らされないままに参戦させられたことへの怒りをここに見るのは、読みすぎか? TV塔アナウンサー役・橘正晃氏の危機迫る演技。顔に油を塗ったとか。 音楽や効果音で煽られる危機感・高揚感。 静かに力強く響く鎮魂・祈りの歌。 この緩急。動と静。 企画から公開まで半年位で作られた映画なのに、演出・映像・音楽等々、一級品と褒め称える事柄は、枚挙にいとまがない。 とはいえ、この点だけでいえば、今後、この作品を超える映画が現る可能性はある。 けれど、この映画に関わっていた人々の思いは超えられない。 この映画から、とてつもない怒りを感じるのは私だけ?。 DVDのコメントで伊福部氏が「テクノロジーの技術の圧倒的な差で、日本はアメリカに負けた。そのテクノロジーが、原始的な生命体のゴジラにはなすすべない。気持ちよかったですね(思い出し引用)」とおっしゃる。 終戦間際は、宮内省帝室林野局林業試験場で戦時科学研究員として、放射線による航空機用木材強化(木材!!!)の研究をされていた(Wikiより)からそう思うのだろうか。 伊福部氏と同じかは別にして、この映画の製作者も、公開時の観客も、皆”当事者”だった。圧倒的な破壊・惨状。命の危険。状況への怒り。恐怖。生き残った者としての責務等様々な気持ち…。何らかの形で戦争の傷を負っていた。 ゴジラの進路は東京大空襲と同じ。ゴジラ≒B29としてゴジラの最期に留飲を下げた者もいたのでは? 鎮魂・祈りの歌を歌う音楽学生も。だから、あんなに心に響くのだろう。 そして二度と戦争に利用させまいとする芹沢博士の覚悟。 「核反対」「戦争反対」と頭で考える私達とは違い、体験・心の底・魂からの訴え。 ましてや、核の本当の恐ろしさを知ろうとしないUSAなんぞがこのメッセージを語るとしたら、単なるコピーにしか過ぎない。 体験した者にしか伝えられない迫力。それを、明確なメッセージ・思いとともに、史上最高なエンタテイメントとして昇華させた作品。 息詰まると、この映画を見てすっきりしてリセットするとともに、 山根博士のラストの言葉を深く胸に止め、人為的なこのような破壊を二度と起こさないよう、何ができるのか。 この映画を見る度に考えてしまう。 《蛇足》 Wikiによると、のちに、手塚治虫先生・水木しげる先生・淀川長治先生、小津監督が絶賛したものの、最初はジャーナリズム系では不評だったそうだ。その中で三島由紀夫氏だけがドラマ部分も含めて絶賛したのだとか。 手塚先生・水木先生・淀川先生・小津監督がこの映画を観るのは納得するが、三島氏も観ているとは。私の中で、三島氏のイメージがちょっと変わった。 (美輪明宏氏や坂東玉三郎氏をいち早く認めたのも三島氏と聞く。絶対的な己の美意識の持ち主。そんな方に『ゴジラ』は認められているんですね)
- a_d********
5.0点
このレビューにはネタバレが含まれています。 - cyborg_she_loves
5.0点
これは、「ゴジラシリーズ」の「第1作」では、ありません。この映画は、「ゴジラの逆襲」以後のすべてのゴジラシリーズ映画とは、根本的に違います。 この最初のゴジラが予想外にヒットしたのに浮かれた映画会社が、「ゴジラさえ出せば客は来る」と思い込んで安っぽいゴジラ映画を量産するようになったのは、この最初のゴジラとは何の関係もない、後追い現象です。 そして、ゴジラと言えばこのシリーズに出てくるやつをまず思い浮かべる人たちが、そういう目でこの最初のゴジラを見るから、ゴジラが出てくるシーンが短すぎるとか、特撮が見劣りするとかと文句を言うんです。 恐竜が核実験のせいで怪獣化したというアイデアは既に1953年のアメリカ映画「原子怪獣現わる」で使われたものだから54年のゴジラにオリジナリティはない、というレビューがありました。 確かに、その点に限ればそのとおりです。 ただし、この「原子怪獣」を見た人ならご存知のとおり、この映画の最大の欠陥は、怪獣から逃げる人たちの切迫感のなさでした。「てめーらもっと真面目に演技しろ」と言いたくなるぐらい、無気力にだらだらと逃げてる。パニック映画になってない。 54年のゴジラは、何よりもまずパニック映画としての質を最大限に高めることを意図しています。 この映画は「怪獣映画」である以前にまず「パニック映画」なんです。 怪獣を写すことを最大の眼目にしていない。だからゴジラが映ってる時間も短いし、いつもシルエットとしてばかり映っていて、ゴジラの細部を鮮明に映してるシーンがまったくないんです。 それよりも、逃げ惑う人々、自分の命が今まさに失われようとしている人々の表情、家族を失った人々の嘆き、被害者を追悼する少女たちの鎮魂歌、といったものの方を、詳細に、リアルに描いているんです。 ゴジラはあくまで架空の怪獣だけど、地震や豪雨などで命を失い、住む家を失ったたくさんの人たちを知っている今の私たちの中には、この映画に描かれている被害者の姿を現実の被災者の人たちと重ねてしまい、思わず涙ぐんでしまう人も多いのではないでしょうか(私もそうでした)。 「原子怪獣」では絶対に絶対にありえない反応です。 それから、特撮に関してですが、「逆襲」以後のゴジラ映画では、ゴジラの腰ぐらいの目線からゴジラを映す映像が多いために、ゴジラがちっとも巨大に見えず、人間大にしか見えません。 これに対してこの54年のゴジラは、あくまで身長50mの怪獣を地上の人間が見る目線を一貫してとっています。 しかも、ゴジラが光を嫌う(「逆襲」以後まったく踏襲されなくなった設定です)という性質のために、ゴジラのシーンは常に夜ですから、特撮の技術的な稚拙さが目につきません。ゴジラはちゃんと、暗闇にそそり立つ巨大な怪獣に見えます。 さらにもう1つ。「逆襲」以後のゴジラから消えてしまった、この54年のゴジラだけが持っている重要な性質があります。 それは、ゴジラ(呉爾羅)が、小笠原諸島の大戸島に大昔から伝わる伝説の海の怪物だ、という点です。 島には、この怪物の怒りを鎮めるための神楽の祭までちゃんと継承されている。ゴジラはもともと宗教的存在なんです。「逆襲」以後のシリーズからこの宗教色が完全消滅したことによって、ゴジラの性質は一変しました。 この映画では、ゴジラが島へ近づいてくる時は、ドーン、ドーンという(大魔神の足音に似た)音が響いてきます。 姿が見えず、音だけが近づいてくる恐怖。 ゴジラが宗教的存在であることもあいまって、ゴジラが近づいてくる時の足音は、何ともいえない恐怖感をかもし出しています。 そう。もう1つ。 この映画は、怪獣映画である以前に、「恐怖映画」でもあるんです。 ゴジラの姿が映像として映っているシーンは短いですが、こういう目に見えない形でゴジラが人々を脅かすシーンは、最初から何度も出てきます。 姿は映ってないけど、ゴジラはちゃんと登場してるんですよ。音として。 「逆襲」以後のドタバタ暴れまわるゴジラを期待する人は肩すかしを食うかもしれませんが、「映っていないからこそ怖い」というゴジラの恐怖を、この映画は非常に巧みに描いています。 この映画のゴジラは、水爆実験で初めて生まれたのではありません。太古の昔から、島の祭に満足して、海底で静かな生活を送っていたんです。ところが水爆実験で住む場所を奪われて、怒りに燃えて人間たちの世界へ襲い掛かってきた。ゴジラが凶暴化したのは人間のせいなんです。 そこのところが、以後のシリーズではぜ~んぶ飛んでしまって、人間の味方してキングギドラなどの怪獣たちと戦ったりとか、変なことになってる。 これを「ゴジラシリーズ第1作」として見るのは、やめましょう。 これは、唯一無二、空前絶後のパニック映画・ホラー映画です。
- bpp********
5.0点
崩れ行く東京、放射線汚染、慌てふためく国民。映画で描写された光景をまさか2011年3月11日と重なる部分があるとは・・・オキシジェデストロイヤーを持って海に潜るシーンはあたかも原発事故直後、格納容器で弁を開こうとした作業員の決死の行動と重なって見てしまう。 モンスターパニックというエンターテイメントとしても突出した傑作であり、リアリティーある描写だったということが現代で証明された邦画の名作!!
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