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ノストラダムスの大予言

ノストラダムスの大予言

CATASTROPHE 1999

114

par********

1.0

想像していたよりズッとひどい映画

1974年の大ヒット邦画ながら、作中の被爆描写にクレームが入り、長年に渡り「封印映画」とされてきたことで有名な映画だ。 さて、実際に鑑賞してみると、そういった問題描写の以前に、荒唐無稽の異常気象話、舛田利雄のメリハリのない演出、狂信的な丹波哲郎の演技、さらに特撮部が張り切りすぎたストーリーとマッチしない大仰な特撮などが、二時間続き単純に鑑賞が苦痛である。 まず脚本上の問題が非常に大きい映画だ。丹波哲郎演じる環境学者・西山良玄の予言どおりに世界各国で異常気象(つまりハルマゲドン)が発生するという、『日本沈没』に続くディザスター・ムービーとしての要素が強いのだが、「オカルト」を骨子としてそれに放射能問題・公害問題など(当時の)今日的課題を詰め込んだ結果、”混ぜるな危険”を全力で撹拌して毒臭が一面に漂う大事故になってしまっている。それらのセンシティブな話題を扱うには70年代的日本人には荷が重すぎたというのがこの映画が封印となった原因だろう。 主人公・西山が政府会議で行う演説は、倫理観に欠けるこの映画でも最もヒドイものだ。つまりこういうことだ。「このままでは人類は環境を破壊してしまう。だから日本人はすべての産業を最低限までストップさせる。稗や粟でも食え。そして人口抑制のためには、弱い者、能力なき者は…」と続く。 少し前のシーンで、公害問題によって奇形児が増えているというエピソードを行ったあとでこの演説だ。あまりにも明明白白な優生思想ではないか。 作中でも「それはナチズムだ」と批判はあるが、「キレイ事ばかり並べるからすべてがめちゃくちゃになってしまう!」と西山の反論でシーンは閉じてしまう。 奇形や被爆など、ものすごくセンシティブな話題を消費しながら、そこから発せられるメッセージがなんと純朴な優生学という、ナチスのプロパガンダ映画でも思い付かないようなあまりに邪悪なストーリーに、露悪趣味でこの映画を覗いた私もゾッとした。なんと倫理観のない時代だったのだろう。 さて問題となった被爆者描写だが、そんな製作者たちの素朴な差別意識をまたこれでもかと反映したような映像で、これまた輪をかけてひどい。スペル星人みたいなもんかなと思っていたら全く違う。放射能が降り注いだ(なんで?)ニューギニアでは原住民たちが被爆し、その結果、なんと人肉を求め調査員たちに襲いかかる食人鬼となってしまったのだ。なんで?  放射能被爆と食人は全く関係がないではないか。それとも放射能を浴びると理性を忘れてゾンビになってしまうとでもいいたいのだろうか。被爆者の造形が差別的だという批判なら、また人権屋がクレームを付けているなくらいにしか思わなかっただろうが、こりゃ被爆者なら誰だって文句を言うよ。そもそもニューギニアで人を食ってたのは日本兵なのだが。 その後に描写される、世界核戦争後の新人類(被爆者)造形も、やはり褒められたものではないだろう。事実、この映画の根底にあるのは環境保護でもオカルトでもなく、モンド趣味に過ぎない。 ところでこの映画に通底している思想として、環境保護と合わせて反資本主義精神を訴えているのが興味深い。資本主義が環境破壊の諸悪の根源だという理解はなるほど一面的に正しいが、しかしだからといって資本主義を全面的にストップしよう、という結論には強い思想性を感じる。一見過激なこの発想はしかし今も根強く生き残り、反原発を錦の御旗として同主張が今も繰り返し再現される。「たかが電気」とある音楽家が言っていた。そういえばその音楽家はかつて人民服を羽織っていたが、その国はまさに人口抑制策として「一人っ子政策」を行っていたのであった。西山の演説ソックリである。ヒステリックな環境左翼と全体主義は根がつながってるのではないかと私は思う。 人間は自然の脅威を知っているからこそ、科学を学び都市を作った。豊かさを捨てたとき、そのとき姥捨て山のように一緒に置き捨てられるのは、むしろ社会の弱い人間なのである。この映画は逆説的に環境主義の恐ろしさを暴いてしまったと思う。

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