略歴
父はハバナでトマトの栽培をする農夫で、身重の妻と共にトマトを出荷しにマイアミに来たときに彼が生まれたという。家庭の事情で15歳の時に学校をやめてアメリカに渡り、店員や建設労働者などさまざまな職業に就く。翌年歳を偽り軍隊に入隊。除隊後に俳優を目指そうとアメリカン・ニグロ・シアターに入ろうとするが、ハバナ訛りが激しく裏方として入団。舞台裏の仕事をしながら演技の勉強を受けた。45年に端役で映画デビュー。翌年には黒人俳優だけの舞台でブロードウェイにも立った。50年の「復讐鬼」あたりから役が付くようになり55年の「暴力教室」で注目を受け、「手錠のまゝの脱獄」では共演のトニー・カーティスと共にアカデミー主演賞候補となり、63年の「野のユリ」で黒人俳優として初めてアカデミー主演賞を受賞。その後は「いつも心に太陽を」「招かれざる客」、そして「夜の大捜査線」と人種問題を正面から描いた問題作に出演して黒人俳優の道を切り開いた存在となった。しかし公民権運動が盛んになってくると彼の存在は次第に影を潜め始めてしまい、69年からはポール・ニューマン達とプロダクションを設立してプロデュース業に進出。71年には「ブラック・ライダー」で監督にも挑戦したが成功とは言えなかった。87年に役者として「影なき男」で復帰。タフな刑事を演じて元気なところをアピール。50年にダンサーと結婚して4人の娘にも恵まれたが65年に離婚。その後75年にジョアンナ・シムカスと再婚して二女がいる。バハマの駐日大使をした経験もある。
allcinema ONLINE(外部リンク)
受賞歴
映画賞 | 受賞回(年度) | 受賞部門 / 作品 |
---|---|---|
アカデミー賞 | 第74回(2001年) |
|
ゴールデン・グローブ | 第39回(1981年) |
|
ゴールデン・グローブ | 第26回(1968年) |
|
アカデミー賞 | 第36回(1963年) |
野のユリ |
ベルリン国際映画祭 | 第13回(1963年) |
野のユリ |
ゴールデン・グローブ | 第21回(1963年) |
野のユリ |
ベルリン国際映画祭 | 第8回(1958年) |
手錠のまゝの脱獄 |