略歴
本名はEldred Gregory Peck。6歳の時に両親が離婚。薬剤師だった父と祖母に育てられ、週末には毎週祖母と映画に出掛けていたという。高校卒業後、父の希望で医者を目指して大学では医学部に入学。クラグはボート部に入ってレガッタの選手となるが、試合中に脊髄を痛めて引退。また3年生の頃から演劇に魅せられ、次第に俳優の道を志すようになる。卒業後にNYへと渡り、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールでガイドなどを経験後、奨学金を得てネバーフット・プレイハウスで本格的に演技を学び、42年にはブロードウェイにも進出。やがて製作のケイシー・ロビンソンに認められ44年に「炎のロシア戦線」で映画デビュー。脊髄の負傷で兵役免除となっていたため男優不足の映画界で次々と出演作が決まったという。以降の活躍は御存知の通り、アカデミー主演賞候補になる事5回。独立プロを設立して製作した「白鯨」や「大いなる西部」の興行的失敗や人気の低迷もあったが「ナバロンの要塞」で復活し、「アラバマ物語」で念願の主演賞の栄冠を手にした。80年以降は第一線を退き脇役として時たま映画やTVに出演。またアカデミー協会、ハリウッド俳優組合、アメリカ癌協会、フィルム・インスティチュートなどで理事や会長を歴任。俳優の権利と地位向上にも取り組み、その功績から68年にはアカデミーのジーン・ハーショルト友愛賞や自由勲章を授与された。政治活動も盛んでニクソン政権下の時はブラック・リストに載った事もあるとか。結婚は2度で、5人の子供の内、セシリアとトニーは俳優になった。千冊以上もの蔵書を持つリンカーン研究者としても有名。03年、老衰のために妻に看取られながらこの世を去った。
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受賞歴
映画賞 | 受賞回(年度) | 受賞部門 / 作品 |
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カンヌ国際映画祭 | 第42回(1989年) |
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ゴールデン・グローブ | 第26回(1968年) |
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アカデミー賞 | 第40回(1967年) |
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アカデミー賞 | 第35回(1962年) |
アラバマ物語 |
ゴールデン・グローブ | 第20回(1962年) |
アラバマ物語 |
ゴールデン・グローブ | 第12回(1954年) |
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NY批評家協会賞 | 第16回(1950年) |
頭上の敵機 |
ゴールデン・グローブ | 第8回(1950年) |
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ゴールデン・グローブ | 第4回(1946年) |
子鹿物語 |