略歴
本名はGeorge Orson Wells。父は発明家、母はピアニストだった。6歳の時両親が離婚。母に引取られるが、2年後に母が亡くなり父の元で優雅な生活を経験。高校時代から学生劇に参加して俳優兼演出家として早くから才能の片鱗を見せていたという。高校卒業後、絵画の勉強と称してアイルランドのダブリンへ渡り、年を偽って劇場のオーディションに参加。合格後に舞台デビューを果たす。やがてダブリンの有名劇場にも立ち、34年、モロッコ、スペインを経て帰国。NYでNBCなどのラジオに出演や舞台演出、37年にはマーキュリー劇団を組織するなどした。そして翌年の10月30日。H・G・ウェルズ原作の『宇宙戦争』をラジオ・ドラマ化してCBSからニュース形式で放送。しかしそのあまりにもリアルな演出のため、全米がパニックに陥るという現象を巻き起こした(この有名な出来事は後に「アメリカを震撼させた夜」としてTVM化された)。その事に注目したRKOが彼をハリウッドに呼び41年「市民ケーン」を制作。アカデミーに9部門ノミーネートされ脚本賞に輝いた。当時弱冠25歳にして巧みな構成と斬新なカメラ・ワークで世界中の映画ファンを愕然とさせた。しかし以降は「市民ケーン」ほどの衝撃的な作品はなく、本人も“頂上からスタートして滑り降りた”と認めるなど作品の出来はあまり良くなかった。が、俳優としては独特の顔立ちと大柄な体型を活かした性格俳優として活躍。70年にはその功績を称えてアカデミーから名誉賞を送られた。結婚は3回で2番目の妻はあのリタ・ヘイワース(43~47)。パオラ・モリとは56年に結婚したがその後離婚に至っている。85年、心臓発作のためこの世を去った。「トランスフォーマー ザ・ムービー」が遺作というのは寂しいところでもある。
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受賞歴
映画賞 | 受賞回(年度) | 受賞部門 / 作品 |
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LA批評家協会賞 | 第19回(1993年) |
オーソン・ウェルズ/イッツ・オール・トゥルー |
LA批評家協会賞 | 第4回(1978年) |
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アカデミー賞 | 第43回(1970年) |
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ヴェネチア国際映画祭 | 第31回(1970年) |
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カンヌ国際映画祭 | 第19回(1966年) |
オーソン・ウェルズのフォルスタッフ |
カンヌ国際映画祭 | 第19回(1966年) |
オーソン・ウェルズのフォルスタッフ |
カンヌ国際映画祭 | 第19回(1966年) |
オーソン・ウェルズのフォルスタッフ |
カンヌ国際映画祭 | 第12回(1959年) |
強迫/ロープ殺人事件 |
カンヌ国際映画祭 | 第5回(1952年) |
オーソン・ウェルズの オセロ |
アカデミー賞 | 第14回(1941年) |
市民ケーン |