略歴
イタリア系で画家の両親は2歳の時離婚。その後、母親に育てられ10歳の時から幾度か中断しているものの演技学校に通学。16歳でステラ・アドラーの下で演技を学ぶ。またアクターズ・スタジオにも通うようになり、やがてオフ・ブロードウェイなどで舞台を経験。映画はニューヨーク派のブライアン・デ・パルマに見出され「ロバート・デ・ニーロの ブルーマンハッタン/BLUE MANHATTAN Ⅱ・黄昏のニューヨーク」で主演。以降数本をデ・パルマとコンビを組む。無軌道な若者を演じた「ミーン・ストリート」で注目をされ、コッポラの「ゴッドファーザーPARTⅡ」で若き日のコルレオーネ役を演じアカデミー助演男優賞を受賞。そして「タクシードライバー」で当時の映画ファンに強烈な衝撃を与えた。この辺りから本格的に名前が知られるようになり、その後は現在まで「レイジング・ブル」でアカデミー主演男優賞受賞、他ノミネートは4回に各映画賞受賞と燦々たる評価を集めている。“ウソの演技が出来ない”と本人が語る如く、役に成りきるため「レイジング・ブル」では体重を30ポンドも増やしたり 、「アンタッチャブル」では頭髪を抜いたりと演技に対しかたくなに執着することでも有名で、その姿勢は“デ・ニーロ・アプローチ”なる言葉まで誕生させた。93年「ブロンクス物語/愛につつまれた街」では監督デビューも果たした。
allcinema ONLINE(外部リンク)
受賞歴
映画賞 | 受賞回(年度) | 受賞部門 / 作品 |
---|---|---|
ヴェネチア国際映画祭 | 第50回(1993年) |
|
ヴェネチア国際映画祭 | 第50回(1993年) |
|
NY批評家協会賞 | 第56回(1990年) |
グッドフェローズ |
NY批評家協会賞 | 第56回(1990年) |
レナードの朝 |
アカデミー賞 | 第53回(1980年) |
レイジング・ブル |
NY批評家協会賞 | 第46回(1980年) |
レイジング・ブル |
LA批評家協会賞 | 第6回(1980年) |
レイジング・ブル |
ゴールデン・グローブ | 第38回(1980年) |
レイジング・ブル |
NY批評家協会賞 | 第42回(1976年) |
タクシードライバー |
LA批評家協会賞 | 第2回(1976年) |
タクシードライバー |
アカデミー賞 | 第47回(1974年) |
ゴッドファーザーPART II |
NY批評家協会賞 | 第39回(1973年) |
バング・ザ・ドラム |